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歴史の回想・北条泰時

川村一彦

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Synopsis

あらすじ

北条泰時(1183~1242)鎌倉幕府3代執権。義時の長男。幼名は金剛。建久5(1194)年源頼朝を烏帽子親として元服。偏諱を賜り頼時と名乗ったが,のち泰時と改名。江間太郎と号す。建仁2(1202)年三浦義村の娘と結婚,翌年,嫡男時氏を儲けた。官位は駿河守,武蔵守,左京権大夫などを経て正四位下に至る。北条氏の正嫡として早くから幕府内に重んぜられ,建保1(1213)年の和田義盛の乱では将軍御所(幕府)の防御に奮戦し,同6年7月には父の後任の侍所別当となった。承久3(1221)年5月に承久の乱が勃発すると,叔父北条時房と共に幕軍主力を率いて東海道を西上,6月入京を果たした。泰時は北方,時房は南方の初代六波羅探題として,そのまま京都に駐留した。元仁1(1224)年6月,父の執権義時が急死したため帰東,北条政子の指示により執権職を継いだ。翌嘉禄1(1225)年長老大江広元,政子が相次いで逝くと,六波羅に在った時房を連署(副執権)に迎えて両執権制を確立。同年暮,幕府を大倉から鎌倉中心部の宇都宮辻子に移転したのを機に評定衆を定め,また鎌倉大番の制を整えた。さらに同所で,源氏将軍の後継者として摂関九条家から迎えていた三寅(藤原頼経)の元服式を挙行,翌年1月,頼経への将軍宣下を計らった。かくして幕政大いに刷新し,ここに執権政治が確立したといえる。寛喜の飢饉(1230~31ころ)のおりにみせた泰時の撫民策は,仁政として後世に語り継がれ,貞永1(1232)年には最初の武家法典たる『御成敗式目』を制定し,裁判の公平を期した。 一方,畿内大社寺の勢力に対しては強硬な態度で臨み,悪僧らの武装解除を推進した。暦仁1(1238)年篝屋を設置して洛中の治安維持にも努めたが,仁治3(1242)年四条天皇の後嗣問題に介入,廷臣の反対を抑えて後嵯峨天皇を即位させた。泰時が合議と道理に基づく政治を主唱・実行したのは事実だが,同時に,執権の権威高揚と北条氏の家督としての権力強化に腐心した一面も見過ごせない。同年5月,病により出家(法名観阿),翌月没した。泰時の墳墓は大船(鎌倉市)に作られ,今も常楽寺境内に伝えられる。

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