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一乗谷城の戦い

川村一彦

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Synopsis

あらすじ

戦国時代 信長包囲網の中心にいたのは、すでに室町幕府としての実体が無いに等しい将軍足利義昭であった。義昭は、元亀3年(1572)10月に、武田信玄が西上の軍をおこしたことで強気になり、信長と敵対したが、翌天正元年4月に武田信玄が病死してしまったことで、義昭も信長に攻められ、追放された。信長にとって、残る近くの敵は石山本願寺の顕如と浅井・朝倉両氏だけとなった。8月に入って、小谷城包囲の戦いが続けられていたが、小谷城の支城山本山城の阿閉貞征が信長側に寝返ってきたという連絡が入った。信長は8月8日、自ら近江に出陣。その情報を得た朝倉義景は、自ら2万の大軍を率いて小谷城の後詰に出て、13日、小谷城の北で両軍はげしい戦いとなった。信長としては、そこで雌雄を決しようという覚悟で臨んでおり、朝倉軍を撃ち破り、追撃している。信長はあらかじめ、「朝倉軍が退散するのを見逃さず、追撃せよ」と命じていた。しかし、柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・羽柴秀吉・滝川一益ら、信長家臣の錚々たる部将たちは朝倉軍の退却を知らず、追撃が遅れ、信長から痛罵されていた様子が『信長公記』にみえる。そのとき、佐久間信盛が、「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」と弁解し、さらに信長の怒りを買っている。後年、信盛が織田家から追放されたのも、この時の一言が原因であった。信長は逃げる朝倉勢を追い、木之本から刀根越えをし、疋田敦賀に乱入していった。刀根坂の戦いは特に激戦として知られている。14・15・16日と信長は敦賀に逗留している。浅井軍の動きを牽制していたのか朝倉文化とも呼ばれる、洗練された生活様式。その城下の暮らしまでも再現されている。再現された一乗谷の暮らしもしれない。しかし、浅井軍に動きはなかった。すでに信長と戦うだけの気力も軍事力もなかったようである。17日、木ノ芽峠を越え、18日には府中の龍門寺に本陣を置き、いよいよ朝倉氏の本拠一乗谷に迫った。一乗谷には麓の平時の館のほか、山上に詰の城としての山城があり、そこに籠って戦えば戦えるだけの軍事力はあったと思われる。しかし、頼りにしていた平泉寺の衆徒が信長方についてしまい、その平泉寺衆徒によって一乗谷も焼き払われてしまったため、義景は一乗谷に入ることができず、結局、大野郡の六坊賢松寺に逃れたが、そこで20日、一族の朝倉景鏡に迫られ、自害して果てている。

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