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徳川光圀の実像

川村一彦

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Synopsis

あらすじ

徳川光圀(1628~1700)江戸前期の大名、第二代水戸藩主。初代藩主頼房の第三子、母は側室谷久子。水戸城下で生まれ、三木之次夫妻に養育された。幼名千代松。1633年(寛永10)6歳の時世子として江戸藩邸に移り、1636年元服して光国として名乗る(国は後圀に改めた)号は日新斎、率然子、常山、梅里、西山。18歳の時「史記」の伯夷伝に感動して、兄を超えて家督を継ぐことをの非を悟り、将来家を譲ることを決意し兄の子を養い、以降、書を集めて終生学問に励んだ。27歳で前関白近衛の次女近衛尋子と結婚したが5年後に病没され、その後生涯独身を通した。1661年(寛文元)父の没後34年藩主で藩主を継いだが、その藩政は父の創業の上に自ら学問見識に基ずき、神仏を分離し古社寺を再興して信仰を正し、迷信や因襲を排して道徳を勧めた。また貨幣経済の発展に伴う暴利や賄賂を禁じた、微税法の改正や医療法普及に努めたことなど善政とし称えらえた。影響の大きいのは「大日本史」の編纂などの文化事業で30歳のときに史局彰考館を開いて始めた修史は、次第に幕府の御用学である林家史学かけ離れ、「史記」に倣った紀伝体によって「皇統を正閏し人臣を是非する目標を掲げ、全国各地から多くの学者集め史料を収集して独自の史観を樹立した。ことに南朝を正統とし、引退後楠木正成のために「嗚呼忠臣楠子之墓」とした墓を湊川に建てことは、後世志士の心を奮起させた。そのほか古典の校訂や文書記録の保存に務めたことが朝廷・公家の心を引き、また「扶桑拾葉集」「礼儀類典」を編集献上したことは朝議復興・文運興隆に貢献した。1690年(元禄3)兄頼重の子綱条を第3代藩主につけて領内水戸近郊西山に隠居した。10年後73歳で没し義公と贈りなされた。

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