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後醍醐帝の建武新政

川村一彦

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Synopsis

あらすじ

後醍醐天皇(1288年~1339年)鎌倉末期から南北朝時代の天皇。1318年(文保)~1339年(暦応2・延元4)在位。後宇多天皇の第二皇子、母は藤原忠継の女談天門院忠子。諱は尊治。1308年(延慶元)花園天皇の皇太子となり、1318年即位。1321年(元亨元)12月後宇多法王の院政を廃して記録書を再興親政を開始た。吉田定房、北畠親房らを側近とし、さらに家格にとらわれず日野資朝・俊基らを積極的に登用した。生前みずからの諡号を「後醍醐」と定めていたようで、延喜・天暦の治を行った醍醐・村上天皇の治政を理想としていた。宋学を深く学び、宋朝型の君主独裁政権を目指していたとも言われている。天皇は諸政の刷新に努めたが、その実をあげるためには、皇位継承問題に容喙する鎌倉幕府の存在が障害であった。天皇は討幕の計画を練るために無礼講や宋学の購書会を開いて同氏と糾合した。しかし、この計画は事前に漏れ、1324年(正中元)9月、六波羅探題軍の急襲によって土岐頼兼、多治見国長らが殺され失敗した。天皇は、こののちも討幕の意思を変えず、子の尊雲法親王を天台座主としたり、畿内の大社寺の兵力を味方に引き入れようと努力した。日野資基を山伏に変装させ諸国の政情や武士たちの経済力を調査させた。1331年(元弘元)4月、吉田定房の密告によって、またもや討幕の計画が発覚した。鎌倉幕府は直ちに長崎高貞らを上洛させ、日野俊基、円観、文観らを逮捕した。同年8月、天皇はかろうじて京都を脱出して笠置に布陣して、近隣の土豪・野伏らに参陣を呼びかけた。しかし、幕府の大軍の前に笠置砦は旬日を経ずして陥落し、天皇は捕らえられて翌1332年3月、隠岐へと流刑になった。隠岐の配所に従ったのは阿野廉子や千種忠顕らであった。こうして討幕運動は鎮圧されたかに見えたが、同年11月頃から、吉野で護良親王が、また河内千早城で楠木正成らが挙兵すると、諸国の反幕運動が急速に展開した。諸国の悪党の蜂起によって幕府の支配機構は麻痺した間隙をぬって、1333年2月、天皇は隠岐を脱出して伯耆名和湊の海商名和長利の助けを受けて船上山に立て籠もり、朝敵追討の宣旨を諸国に発した。足利高氏は同年4月下旬に天皇に応じて反幕府の旗幟を鮮明にし

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